君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


可能性と蓋然性

http://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum60.htm


世に在る可能性がゼロであるものは、存外に少ないものだ。
大抵は、ある事象にはあらゆる可能性が幾許か含まれており、絶対という事はありえない。

例えば僕やあなたが今、この瞬間に死ぬ可能性は、ゼロではない。
だからといって数値化することは不可能であるが、おそらく、ほぼゼロと言って差し支えないだろう。

『あなたが、今この瞬間、死ぬ可能性はゼロではない。逆にいえば、少しはある。 ということは、あなたはこの瞬間に死んでもなんら不思議ではない。なぜなら、人はいつだって死ぬ可能性があるからだ。』

このように、『可能性』 という言葉には、水掛け論のような矛盾が含まれる。
言っている事は、なるほど筋は通っているようには見える。しかし決定的に――そもそも根本的に間違っている点があるのだ。
というのは、言葉の使う場面を間違えているのだから当然だ。

可能性の 『』 という字には多くの意味があるが、それらは大凡「できる」という趣旨がある。

従って 『可能性』 という言葉をあえて崩すならば、『物事の現実的な能(あた)うる在り方の度合い』と言える。英語で言い換えるならば、possibility である、つまり『出来うる度合い』と考えて良い。

『あなたが死ぬ可能性』 という言葉の根本的な違いは、可能性という言葉を、そのまま同義語にすりかえれば決定的となる。

即ち、『あなたが死ぬことが出来うる度合い』 だ。
こうして見てみれば、愈々もってしておかしい事に気が付く。(もちろん前提として、彼は死のうとなどしておらず、思ってもいない。)

この違いはどこから来るのか、というものは先ほど説明したように、可能性は出来る度合いを示しているからである。

では、これに代わる言葉はないのだろうか。
『可能性』 という言葉はひどく便利で有るが故に、また新聞などの広く目につくメディアが多用することで、正しい意味合いを持つ言葉は除外され、本来の意味の外に広がって遣われるようになった。

つまり、先の例文を、『あなたが死にうる度合い』と 同義語で言い換えても相違いないでない言葉であれば良いわけだ。

蓋然性 (がいぜんせい) という、『起こりうる度合い』 という意味を持つ言葉がある。

蓋然性の『』は、フタと読めば日常で容器の口を覆いかぶせて塞ぐソレだ。
しかし蓋(ガイ)は、「けだし」 という言葉を漢字で書き現した字で、けだしは漢字では 蓋し と書く。

さてその 『蓋し』 の意味だが、可能性とは違ってその範囲があいまいで分かりにくい。また『出来る』という意味自体が混同されたために、日常ではまず見ない域にまで追いやられてしまったのではないか、と推測するが、これは置いておこう。

蓋しは、程度を表す言葉だ。
その意味は大辞林によれば、
(1)かなりの確信をもって推量する意を表す。思うに。確かに。おそらく。たぶん。
(2)疑いの気持ちをもって推量したり仮定したりする意を表す。ひょっとして。もしかして。もしや。

となっている。

『確かに』とは、確実であることを認める表現だ。
一方『ひょっとしたら』はかなり当てずっぽうで、殆ど確信の無いことを推測する表現だ。
『確かに』 と 『ひょっとしたら』、この二つの語を一つに統べる『蓋し』という言葉は、なるほど説明しにくく理解しにくいだろう。
そしてその違いは、文脈から汲み取るよりないのである。

蓋し を英語で表すことは適わないが、『蓋然性』 は英語に直すことができ、即ち probability となる。

可能性は possibility
蓋然性は probability

と、良く似ており意味も近いが、同じではない。

可能性とは、『出来うる度合い』を表し、
蓋然性とは、『起こり得る度合い』を表す。

従って、これは例文に当てはめて考えると、『あなたが今この瞬間、死ぬ蓋然性はゼロである』 となる。

可能性はゼロではないが、蓋然性はゼロだ。
逆説的にいえば、自然体において蓋然性が高ければ、可能性も高いこととなることが多い。

A国とB国の国交が断絶し、正に戦争が始まろうとしているときは、蓋然性は限りなく高い。そしてそうなった場合には可能性は追従して高くなる。

しかし例外もある。
A君とB君の仲が悪くなったとき、喧嘩が起る蓋然性は高い。今にも喧嘩が起きそうだが、今の時間は厳しい数学の時限である。教師が怖いので、喧嘩できない。

このように、『したいけど出来ない』 といった人間的な、能動的な表現こそが蓋然性であるといえよう。
逆に『出来るから行う』というのは、受動的で、人間的でない。理性を伴っていないからだ。


『大人になる』ということは、『可能性ばかりが高く、蓋然性は低い』と言い換えることが出来るのかもしれない。




ではまた。



2010年5月24日(月)22:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

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