君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


ボケ

はい。

ザ・体たらくですね。

毎日更新するということが、どれだけ大切なことなのか分かりました。
それと同時に、いかにこのブログの情報的価値がないことか。

もちろん駄文を連ねて勝手気ままに書いているだけなので、情報的価値なんてのはごく一部しかないのですがね。


いつの間にか1月も終わりそうです。もう2月です。
実質、2月という一か月間が最後の学校生活ということになりそうです。


思い返せば色々あったなぁ。
それなりに濃い学生時代を送れたのではないかと思います。

僕が怖いのは、この人生における最も濃密な時期であり楽しい時期であった学生生活の記憶を忘れることです。

既に毎日アホみたいに過ごしてた中学生時代の記憶なんぞは殆どありません。悲しい限りです。


記憶には様々な種類があるといいます。
その種類や属性は多岐にわたるのでここでは書けませんが、以下のURLを参考にしていただけるとよろしいかと思います。

http://trauma.or.tv/1nou/2.html


その一つに「意味記憶」「エピソード記憶」というものがあります。
前者は"知識"、後者は"思い出"と言い換えられます。

その他にも「技能記憶」「潜在記憶」などがあり、前者は所謂"体が覚えていた"というもの。後者はトラウマとも呼べるのではないでしょうか。


僕が忘れやすいのは主にエピソード記憶なのだと思います。
その当時何が起きたのか、思い出せない。思い出せないとも違うか。

そもそも最初からそのような思い出の中の出来事が無かったかのような感覚。「忘れていることすら忘れている」。

忘れただけなら、記憶にある不自然な空洞から、なんとか適合するピースを見つけてはめ込めば、その記憶はよみがえるのかも知れません。

しかし「忘れたことを忘れた」ならば、”不自然な空洞”が存在しない。何か別の(しかし中身は空洞の)ピースが空洞を埋めてしまっているかのように、そのピースが空洞であることに気が付かない。


とはいえ、この程度は割と昔からそうだったのです。
同じ体験をした人と同じ思い出を持っていない場合が多かったと思います。



しかしここ数年では、「意味記憶」の方が欠落しやすくなっていると自覚しています。

例えば "漢字が思い出せない”ということは良くある話だと思います。
しかし、"漢字の読みが思い出せない”ということは余りない。

漢字が読めないというときは、元から読めない場合が多い。



今の例は漢字でしたが、それはもっと身近で、あらゆる分野で起こる。

人は誰しも忘れるものです。完全記憶なんてのは物語にすぎません。
いや、南方熊楠とかそういう例外な人も居ますが…


例えば、興味のある事柄の場合では、人はその事柄を忘れにくい。
その他にも、日常的な物事、身近な物事についても同様で、忘れたくても中々忘れられるものではない。

僕も忘れたいからと言って忘れられる訳ではなく、興味のある事柄だろうと、身近な事柄だろうと、日常的な事柄だろうと、それらの意味記憶が失われる。



「ど忘れ」という言葉がある。
何故かいつも慣れ親しんでいるような言葉が出てこなかったり、用事を足しに来たのに用事の内容を忘れてしまったりする。


「ど忘れ」というくらいだから、滅多に起こる物ではない。

そして、「ど忘れ」の起こるタイミングには何らかの傾向があるように思える。
特に「意識が一時的に外を向くとき」に起こりやすいのではないか。

そしてその忘れる事柄は、あまり日常的でないことであることも多いと思う。
誰かに用事を頼もうとして声をかけて、忘れたことに気が付くことも多い。


しかし僕は何も特殊でない、日常的な言葉でさえ失語してしまうことがある。

「謙虚」とか「謙遜」といった言葉を忘れたこともある。
「腱鞘炎」という言葉も忘れたことがある。

「スティングレイ」とか「GSX」だとか、音楽やバイクについても忘れる。

「マヨヒガ」や「三島由紀夫」「ドグラ・マグラ」といった、特に興味のある民俗学や小説についても、しばしば忘却する。



とても恥ずかしい話なのだが、忘れたときには、その答えがすぐ近くに潜んでいても思い出せない。

腱鞘炎について忘れたとき、「けん○えん」までは頭の中で、「確かこういう言葉だったか」と一生懸命思い出そうと努力していた。

恥ずかしながら、「腱鞘炎」のすべての漢字が思い出せなかった。
そして「鞘」というたった一文字(ひらがな3文字)だけが足りないところまで思い出したのにもかかわらず、結局その場で思い出すことは無かった。

失語してしまう。
いや、失語症ではないのだけれど。


人の名前を覚えるのが苦手な僕でも、なぜか漫画や小説の作者・著者は覚えられることが多い。

しかし「怪談」の著者ラフカディオ・ハーンの名前や、「英霊の聲」などの作者である三島由紀夫、「竜馬がゆく」などの司馬遼太郎など、特に好きな上、一般的にもかなり有名な人の名前ですらしばしば忘却する。

興味があろうとなかろうと。


興味のないものは忘れても仕方がないし、忘れても困りはしない。
しかし興味のあることを忘れるというのは困るし、なんというかショックだ。

興味のあることを思い出せないのは辛い。
語彙力もどんどん縮小してゆくのも辛い。
本を読んでも、物語を覚えていないのは辛い。


かといって忘れて思い出せないのを諦めて放置すれば、きっとボケはもっと激しくなる。
例え思い出せなくても、思い出す努力だけはしなければならない。

例えそれが無駄であろうとも。

ではまた。

頭だけじゃなくてブラウザもPCもブログもおかしい。
もうやだね。



2011年1月26日(水)21:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

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