君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


なんだかライトノベルのような書き口だね。

マシマロは関係ない。本文と関係ない。

どうも鳩屋です。

さて今日も憎き月曜が終わり、明日は憎き火曜が始まる。
今日はもっと早く帰れると思っていたのに、そんなことはない。3時に学校が終わっても帰宅は8時。まぁ、補習とかでないからまだ良いだろう。

しかしこのままで行けば確実に赤点が続出するだろう。それも確実に。
それくらいヤバイ状態であることは、僕自身ヤバイことはわかっている。しかし…この状況を打開できるとも思えない。

今現在にして得意科目はなし、苦手科目は大半、得点源もなし、有利になる資格も無し。

小テストの時点で赤点を余裕で超える点数を連続取得している。もちろん、赤点のボーダーラインを下に超える点数だ。
危機感がない、のかも知れない。不安感はとても大きいが、どこか他人事のようにしか見えないのだ。

テストの勉強する自分、テストを受ける自分、テストを返される自分、点数を見る自分。これらがすべて一つのものであることは言うまでも無い。けれどもこれらが統一された一つの意思かと言われると、そうでもない。

だから、例えば2日前に勉強して、1日前にテストを受け、今日テストを返され、その(ひどい)点数を見ている自分は、二日前に勉強した誰かが、1日前にテストを受けた誰かの、今日は答案を見てるわけだ。
僕はどこにいるんだろうか?

なんだかどこかのラノベの導入編のように見えるかもしれないけど、これは僕の現実だ。

上の文章どおりなら、「今、答案を見ている」のが僕であるけれど、しかしその答案自体が僕の物ではないが故に危機感を覚えない。

テストの結果を見て落胆するのならば、他人の結果なんかはどうでもいい。「自分が勉強し、自分が受けて、自分の答案を見る」ことで自分が落ち込む。(どちらにせよ落ち込む以外の結果はない)

しかしテストの答案をみて赤点でも「こんなもんか」という具合に見える。誇らしい点数での「こんなもんか」とみすぼらしい点数での「こんなもんか」ではニュアンスが違うのは分かると思うが、僕のは前者でも後者でもない。なぜならこれらはどちらも当事者としての感想だからである。
同じ量勉強していい結果だった場合の「こんなもんか」は『思ったより簡単だった』というものだろう。
逆に駄目だったときの「こんなもんか」は『思ったより難しかった』となる。
僕の「こんなもんか」は本当に無関心のようで、まるで受けたのと返された僕は同一人物ではない、と言ってるような感じだ。

もちろん、自分のことなのだからそれは自分が良く分かるし、他人には分からないだろう。
時間が経つにつれて自分が自分でなくなる、ともいえる。過去の自分は自分じゃないという錯覚。もちろん責任という言葉はついて回る。しかしそれは過去の自分にではなく、今の自分にである。だから過去の自分は、未来の自分に責任を負わせたくないがために好き勝手な行動はしない。

過去の自分は自分ではないという。では未来の自分は自分なのだろうか?
今現在の僕は、過去は他人事だが未来に覚える不安感が続く限り、これは自分自身であると思う。未来に覚える不安感というのは、今僕が先を憂いている現状そのもので、これを打破しない限りはずっと続く。

この不安感が他人のものだった場合は、つまり自分が関係ない他人の不安だったならば僕はこの先を憂いて悲壮する必要は無いし、そうなればただ安穏と過ごしていくだけだろう。

しかし今現在僕は未来に大きな不安を感じる。変化の無い毎日は、日単位で見れば何も変わらないように見える。同じスタートラインに立って、一斉にスタートした筈なのに僕にはゴールが見えていないし、それどころかゴールまで体力が持つかわからないのだ。
一寸先が闇だったとき、例え一寸先にゴールがあってもそれは見えない。つまり今までの道のりの間と同様に、ゴールの見えない恐怖感に苛まれなければならない。

そんな経験ないでしょうか?例えば山登りで、最初に1合目の看板を見て以来、歩けど歩けど2合目の看板が見えない。そうしてずっと上っているうちにいつの間にか10合目に辿り着いてしまい、つまりはゴールの位置を知らないだけであったというようなこと。ゴールまで10キロという看板があればこんな恐怖感はないし、最初から20キロの道程だと知っていればペースも守れる。

だから未来の自分が苦しむのは恐怖、過ぎた自分が苦しんだのは、今となっては記憶でしかない。これから起こるであろう苦労をできる限り回避するのは自分であり、苦労するのは自分だ。しかし過去に苦労したのは変えられない事実であり、過去の自分に責任を押し付けることもできない。しかし過去に責任があるなら、今は責任を負う必要はない。(当然、報いはうけるだろうけれど)

未来の責任は今で、今の責任は過去ではない。そうやって過去の自分と、今の自分が別物であるかのように錯覚してしまう。
もちろんそれがすべてではないだろうけれど、今の自分を詭弁で説明するとすればこれくらいにしかならなかった。これも過去の自分がしでかしたことであるから、僕には責任がない。

そうするとすべてがガラス越しに見える景色のようで、現実すらもガラス越しの景色になってしまう。
今現在レポートの締め切りが近い。しかし手をつけていない。間に合うかと言われれば、まあ駄目なんじゃない?と答える。

しかしこれもどこか客観的で、まるでそのレポートが自分に課されたものでないように答える。

例えるならば、自分が操縦する自分のような感じ。操縦しているのは自分だし、自分のさせたいように操縦しているつもりでも、僕はどこか別のところにいて、ガラス越しで景色を見ている。

大型のクレーンのようなものだ。アレは操縦室がガラス張りで、クレーンと離れたところにある。クレーンを操縦しているのは操縦者だが、クレーンは客観的に見えている。

クレーンを実際に操縦した経験はないけれど、きっとこれに近いだろう。



2009年5月11日(月)22:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

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