君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


記憶力と時間経過は比例する法則

はい。

寒いですね。
朝起きて、寒い寒いと身を縮めて支度をします。部屋が寒いのはまぁいいとして、それでも7度くらいあるので外よりは暖かい。
だから外に出ようとしたときに、「あぁ外は凍てつくような寒さなんだろうな」と思って外に出てみると、「あれ?家と大差ない…」って拍子抜けするわけですね。


ある程度より寒いと、なんかあまり違いが無いような気がします。
マイナス10℃もマイナス20℃も、体感温度は似たようなモノですね。
どちらも閉口するほど寒いことには違いないのですが。



さて明日から正月気分なのですが、それは世間一般でのお話。僕はそんな気分じゃないですね。
いや、鬱なわけじゃないですけれど、なんというか釈然としない。

いつの間にか12月が始まって、いつの間にか12月が終わろうとしている。
今年の7月までは、こんなに時が流れるのが早くなかったと思うのだけれど、何かが急に変わったのだろうか。


と思案を巡らせてみると、僕の記憶力が著しく低下した(ように感じる)時期と大体一致する。

記憶力がなくなると、それだけ時間に対する記憶できる量が少なくなるから早く感じるのかも。

つまり、DVDとかの3倍録画みたいに、通常は24FPSで録画するところを8FPSで録画するのと同じことだ。
同じ内容でも記憶する内容を削れば、その分全体の容量は少なくなる。
24時間で例えると、無駄な部分を省いて8時間分だけ記憶すれば、つまり一日が八時間であるのと同じことになる。

いくら一日が二四時間だからといっても、脳が八時間しか記憶していないなら、それはつまり八時間しか生きた記憶がないということ。八時間の外の記憶は、なかったことになってるわけなのだから。


というわけで、記憶力が低下すればするほど、一日が短く感じるという理屈を立ててみた。

とか色々考えてみてるのですが…実際はどうだろう?


といっても時計に記憶は存在しないから、時計は時計としての役割をこなすだけ。電力をもらい、そのエネルギーをもって水晶を発振し、その振動でもって歯車を動かし、針を動かす。時計はただそれだけのことしかしてないわけで。

だから、時計はいつも24時間を1日として見るし、それは変わることが無い。
ただ変化するのは人間の記憶。
時計は相も変わらず1秒から2秒になる間にも、厳密には1.1秒、1.2秒と動くわけだ。

それならば一日が8時間になったとしても、それは人間が記憶していない時間が闇に堕ちるだけで、その消えている間の時間も時計は動き続けていることは明白(或いは明白でないかもしれないが、そうでなかったとしても記憶してないことには同じ)。

だから一日が短くなった、という証明は絶対にできない。観測者が人間である限り。


例えばハイスピードカメラのような、スローで人間の一日を観測するとする。
機械には、たしかに1秒どころか0.01秒の動きまで記録されている。
しかしそれを確認する人間は、0.01秒からの動きを見ているにも関わらず記憶しないとすれば、0.01秒は存在しないのと同じこと。

結局のところ、一日が短くなったと感じるだけで、それ以上の結論は望むべくも無い。


時間とは、いいかえると記憶じゃないだろうか?

時間は直接測ることが出来ない。
時計は「時間を図っている」のではなく、あくまでも決められた機械的な運動を繰り返しているだけに過ぎず、「その運動に要した時間」を人に伝えているだけ。

では時間はどこからきて何処へゆくのか。

時間は未来から来て、過去へ往く。
その流れは一様なもので、逆流することはないと現段階では謂われている。

過去とは、是即記憶。
未来とは、是即予測。


ところで動物は、未来を見ていないという。
ライオンは腹が減ったから食うし、眠いから寝る。それは現在のもので、「これから腹が減ったときのために調達しておく」という行動は存在しない。

つまり予測を立てることがない。未来を見ない。
経験に拠る動作の慣れはあっても、それも「現在」に於いてしか使われない。

しかし記憶はする、と思う。
子を産めばそれを守るし、その顔も忘れない。

もしかしたら匂い的な、本能的な、現在的な動きなのかもしれないけれども。その辺はライオンに訊いてくれ。



兎に角、時間とは「記憶されるから存在する」いやもっといえば、時間は「記憶したことを思い返すことでしか存在することを認められない」。

記憶していないのなら、それは時間が在ったとは言えない。

時間とは、記憶であり過去である。
未来は時間でない。


未来は文字通り、「未だ来ていない事」。

時間はビッグバンの時に突然始まったのだという。それ以前は無で、時間という概念が存在しないのだという。


それならば逆に、これから無に帰す場合もありえないとはいえない。

明日は土曜日だから、昼間で寝てようという予測、すなわち未来は、「明日」が来なければ成立しない。
明日になる前に、逆のビッグバンが起きて無に帰した場合は、もちろん「明日」はこない。

すなわちその時間は存在しないことになる。


時間とは記憶。時間とは過去。
過去とは記憶。記憶とは過去。

記憶していない過去は存在しない事と同じである。


つまり記憶力が低下するということは、その分の過去が抜け落ちる。つまり時間が短くなっているのと同じだということで一件落着。


ではまた。



2009年12月25日(金)23:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
添付画像
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメントはありません。


(1/1ページ)