君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


虎は死して皮を残し、

漫画でも小説でも、あるいは現実でも何でもいい。

「なんであの時、」

という話は誰しも聞いたことが有るはずだ。


「あの時、俺が駄々をこねなければ」
「あの時、笑ってあげれれば」
「あの時、ちょっと優しかったら」



「あの人は死ななかったかも知れない」


ということが。


タイミングと言うモノは恐ろしいもので、喧嘩したときに限って、次の日に相手が死んだりする。
何も死ぬのはその日じゃなくたっていい筈だ。

どうして怨恨があると、人は死ぬのか。
もちろん逆に恨み積もって呪っても、一向に死なない場合もあるが。



非常に泣ける話ではある。



「天国で許してくれてるはずだよ」
と、いう話はオチに使われる。


確かに泣ける。僕は涙もろい。
しかし現実問題では、僕はそうは考えない。


確かに、「どうしてあの時あんなこと言ったんだ」と後悔することはある。

しかし、例え喧嘩の後で死亡したとして僕に後悔が生まれるのは確かだろうが、それについて許しを請おうなどという事ははしない。

なぜならば、死というのは物質的なものだからだ。
生命の神秘というのは結構だが、「死」というものには意味は何もない。

生きている動物が死んだところで、物質的な変化は何もない。
タンパク質と、いくつかの物質であるという事実に違いはないのだ。


そこで死別に戻すと、後悔するのは勝手に自分がするだけ。
相手が死別せずに、離れ離れになっただけだとすれば、この「後悔」には価値がある。
許しを請おうというのにも価値がある。

しかし死んだ相手というのは、どこか遠くに行ってしまう訳ではない。

「天国で許してくれる」というのは、生者が勝手に作り上げた妄想の産物であって、死者は死した時点で生きた頃の記憶は無くなるし、そもそも死んでいるのだから必要が無いわけで、「許す」「許さない」とか、そういうことは全くもって死者には通じない。


死者の視点で見てみよう。

まず先の例で行くと、喧嘩して気分が悪いというのはあるだろう。
そしてムカムカしたまま(あるいは綺麗さっぱり忘れてるか)、まぁ普通に生活する。

しかしそうはいかない。何の因果か、そういう時に限って事故に遭ったりする。
跳ね飛ばされる身体。視界がスローモーションになる。

落下が始まる。
地面が近づく。

そして思う訳だ。
「俺は死ぬんだろうなあ」

次に、
「ああ、なんで喧嘩なんてしたんだろう」

地面が目前だ。
やりのこしたこと。やりたいこと。後悔。

色々と思い浮かぶ。


地面に着いた。地面は冷たい。
もう考える時間もない。

地面はまるで、100トンもあるコンクリートの天井が落ちてきたみたいに、全身の骨を破壊してゆく。

次は痛覚が来るはずだ。

そして―――




おしまい。



即死である。
死した時点で、『思考』というものは存在しない。
もちろん、痛覚は存在しない。

先に書いた、「死んでも、物質的には変わりない」というのは確かにそうだが、一つ変わるモノがある。

それは、呼び方だろう。


生きていれば当然、人間だ。
しかし死亡した場合(もちろん人間ではあるが)では、物体となる。


死した瞬間に、物体へと化す。


死者の視点で、死んだ瞬間には、
まず神経がやられるから、視界はブラックアウトするだろう。


ブラックアウトの後は、


何もない。
なんにも。




「相手がなければ喧嘩は出来ぬ」 という諺があるが、死んでしまっては喧嘩も何もない。
既に喧嘩という状態でもない。


後悔というのは、どう行動しても付きまとうモノで、例えば「あの時こうしていれば、死ななかっただろうに」というのは人間である以上、どうしても思ってしまうことだ。

しかし、「あの時こうしなかったから、死んだのだ」。

それは変わるものではない。
例え喧嘩してもしなくても、死んだかもしれない。
自責という点では、しなかった方が良いのだろうけれど。



死者を冒涜している、という言葉は良く使われる。
この文章に対しても、死者を物体だなんだのというあたり、きっと冒涜しているのだろう。

しかし考えてみてほしい。

死んだ人間の魂が有耶無耶にされて勝手に天国に行かされて勝手に許される方が、冒涜じゃないのか。
勝手に魂だけ抜けて、テキトーにその辺を歩いてたりするのは冒涜じゃないのか。

死者というのが物体であるわけではない。
「死ぬ」ということが「人間でなくなる」ということなのだから、つまり「物体になる」ということだ。



虎は死して皮を残し、人は死して名を遺す。
死者の記憶は生者の心の内にあり。

死とは、死者には一片たりとも関係の無い話で、生者が勝手に怖がっているだけなのだ。

死者は死について、何も思わない。
というのは、死者というものは物質であって、そういう点ではその辺にある本棚と同じなのだ。
本棚は何も思わないし、何も感じない。
本棚に向かって許しを請おうとは思わない。



2010年4月19日(月)21:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
添付画像
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメントはありません。


(1/1ページ)