安心を得るために |
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| はい。
暇が有るようで無いですね。 無いです。オーケー? 正直、更新もままならないですね。
なのになんだろう、このムード。 更新したいんですよね。
いやいや、僕がしっかりせねば。 「僕がしっかり」って、最も僕に似合わない言葉じゃないでしょうか。
でも更新も不定期になるかも知れません。
『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』
安心を・・・生きる・・・
生きるということは、不安だらけだ。 生きている以上、最も恐れるのは死だ。 そしてそれが無いと分かれば、次は・・・心身の充足。
その充足が崩されるのを、何より恐れる。 言い換えれば、安心を得るために生きている。 生きているから、安心を求める。
安心を得たいなあ。 人間をやめればいいのだろうか。そうすれば永遠の安心を手に入れられるのだろうか。
「安心を得るためにすべきこと」に、答えはない。 こればっかりは、全くもって答えは存在しない。
己が安心だと思う方向に進んでゆくしかない。 しかし、答えは無いが近道はある。
一寸先は闇。 たったの3cmの先が、暗闇に閉ざされている。 その先を照らすモノなど在りはしない。
ザ・ワールドは「今」を止めているだけだ。 バイツァ・ダストは時を戻す。 キング・クリムゾンだって、未来を予測できるわけじゃない。 ムーディ・ブルースは過去をさかのぼる。 メイド・イン・ヘヴンは時間を早めているだけだ。
「未来を見る」、つまり「安心を得る」ことは、誰にも出来ない。 ただし、覚悟の出来た人間は幸せだ。
予期せぬ出来事に翻弄されることはない。 何が起こるか分からなくても、「何か起こる」と分かっていれば、身構えて対処することも出来る。
安心を得るためには、未来を知ろうとすること。 未来を知ろうとすることは、覚悟をすること。 安心を得るための最も近道は、覚悟してかかることだ。
覚悟とは、これから襲いかかる不幸に対してするものではない。 未来に起こる、ありとあらゆる出来事に対して、神経を研ぎ澄ませて、いざ起こった時に、どう対処するかを予め決めておく。
何が起こるか分からなくても、「何か」起こると分かっていれば、その状況に則した「何か」が起こるのだという、シミュレーションが出来る。
例えば何かの会議のときにする覚悟。 「絶対に何か起こる」と分かっているならば、何かしらのシミュレーションを立てれば、いざという時に迅速に対応が出来る。
会議のときに、突然死んだりするというのは考えられにくいから、これは想定しなくて良い。 コーヒーをこぼしてしまう、というのも、日常的に想定出来うる範囲内だから、これも想定しなくて良い。
『会議』という場でのみ起こる、通常では想定できない事態を予測することが出来れば良い。
例えば「急に何かの案を出せ」と指名される。 ボーっと会議に立ち会っているだけなら、会議の内容も聴き逃してしまうから、何か聞かれても答えられない。
しかし想定していれば、会議の内容は聞き逃さないように真剣に参加するはずだ。
覚悟とは、想定して対応することだ。
殴られる、よけきれないと分かっていたら、覚悟するだろう。 「殴られたら痛いだろう」→「血が出たら」「骨が折れたら」「逃がしてくれなかったら」
ということを一瞬で考えて、対処する。 血が出たら拭く。骨が折れたら救急車を呼ぶ。逃がしてくれなかったら有り金を差し出す。
安心を得るためにする覚悟というのは、尋常ではない量になる。
しかし逆に、常に目指すべき安心を見据えて起きうることに覚悟している者は、絶対に安心を手に入れることが出来るのだ。
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2010年4月20日(火)23:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理
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