君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


ゴー・フラット・オア・ノット

はい。

時間って正しく使えば意外と使いみちがあるものですよね。
まぁ僕は正しく使えない人間ですけどね。

久しぶりに空き時間ができたら、なにして良いか分からなくなりました。

なんていうか、「なんかやることが有るハズだ」という概念が消えないんですよね。
実際は特に何もないのですが、「そんなハズない。絶対になんかすることがある」と思い込んでいる。

最近はずっと忙しかったからなあ。夏休みも、完全に暇な日ってのは1日か2日くらいしかなかったですよね。
一つのことが終わっても、いつも次になにか待ち構えているんです。だから気が抜けないんですね。


ああ、まあ今思えば、やらなきゃいけないことって尽きないんですけどね。
バンドでやる曲が増えたとか、唯でさえまともに弾けないとか、それどころか最近ギター弾いてないとかね。

まぁバンドに限った話ではないんですけども。
勉学の方もそうですね。本当はもっと焦らなくてはいけないのですが、な~んか、ねぇ。

気が抜けてないというか、気が抜けるというか、気が抜けたというか。





最近テレビでよく見る、ジャーナリストの池上彰氏。

テレビは嫌いだけれど、ニュースは重要です。ニュースの概要は知っていても、内容がさっぱりなんてことはそう珍しい話ではありません。

そういう人も多いのでしょう、最近は「知る」ことに関心が高まっています。良い傾向です。

しかし無知が盾であるとするならば、「知る」ことは武器になるのです。
その武器だって使い方を誤れば、身を滅ぼしたりなんてことも、無いとは言い切れません。


「知る」人がいる以上、教える人も同時に存在します。
問題なのは知る側ではなく、教える側なのです。

今までのテレビ・新聞などのニュースでは、その時の情勢だけを書くことが多かったと思います。

しかし情勢は日ごとに変わるので、新聞などのように「情勢が変化しなければ報道しない」場合、その報道の間隔は長くなります。
それでなくても通常は1日に1回で、それが長く続けば最初の情勢からは大きく変わっていることでしょう。

だから報道を見る人間、つまり当事者でない人間は、その概要は知っていても、きっかけや原因などの本質的な部分が分からなくなってしまうのです。

そして新聞やテレビの悪い癖が、「過去の報道をまとめない」ことです。
過去に報道したことは、もはや当たり前のこととして解説など為されずに進展してゆきます。

知らない事は知らないままに、そのまま情勢が進むので、更に訳が分からなくなってしまう。
だから、世の中で知らないことが増えてきたのです。

また最近は政府もなんだか頼りないことや、円高などの国際情勢が不安定なことも相俟って、「知る」ことの重要性や面白さの認識が高まってきたのだと思います。




さて今の流行はその様な状況なので、「知りたい人」というのは沢山いるわけです。
しかし「教える人」というのは限られてくる。テレビやなんかだと、通常は1人です。

生徒が数十万規模で居るのに教師が1人。
これが何の問題かというと、教師の教えることが、生徒にそのまま浸透してしまうことです。

これはテレビに限った話ではなく、実際に小規模ながらよくある話です。
「子は親の背中を見て育つ」といいますが、「生徒は教える人に染まる」ということでもあるわけです。それが良いことでも悪いことでも、そうです。


歴史や時事は、見方によって色々な側面があります。
つまり、立場によって違うのです。

教える側として、もっとも望ましいのは中立的な立場です。
しかし教師も人間である以上、完全なる中立という立場はありえません。

だから、生徒は教師の立場によって、歪んだ事象を見てしまうことがあるわけです。

Aという物事に対して、ある教師は好印象を持っているとき。
同じ物事に対して、別の教師は悪印象を持っているとき。

教わる人間は、教師の意思やそういった言動から学び、そのAという物事に異なった印象をもつ。

「真実は一つ」かも知れませんが、「事実は捉え方によって違う」のです。


で、話を戻します。
池上彰氏のテレビ番組は面白いです。見てて得すると思います。
しかし誰も反論することなく、言われたことを鵜呑みにしているという事実も同時にあるのです。

それは多分、最初から疑っていないと見えない事実だと思います。
出演者の皆が、不自然な程に賛同しかしていないのです。

疑問があっても疑わない。
このテレビ番組に限った話ではありませんが、疑わないことがどれだけ危険なことか分かっていない。

「辻褄が合うから真実」「納得できたから良い」「自分と同意見だから正しい」「自分の信じたことと同じだから真実」「自分の理屈と違うから誤りだ」「教師が反対勢力だから誤り」などという考え方ではダメです。


「知る」ことと「信じる」ことは違います。

「一を訊いて十を知る」という諺のように、「知る」ことを自分のモノにして先を拓くことこそが、知るという武器の正しい使い方です。

「信じる」ことで疑わず考えず活かせず、真実が見えないまま盲信的になってしまうことが、間違った武器の使いかたと言えます。


信じるなとは言いません。しかし盲信は良くないです。
まずは疑いましょう。

知るにも、信じるにも、疑ってからでも遅くはない筈です。
と言いつつ、知らぬ間に信じていることもよくあるのですが・・・
その辺もある程度は問答無用で信じていないと自分の世界が崩壊してしまいますね。

その線引が難しい。


ではまた。



2010年8月25日(水)21:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

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