検定落ちたよバカヤロー |
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| はい。
本日は大免の検定だった訳ですが――…轟沈!
これで次また札幌に来て受けるのが確定した訳ですが、面倒なことこの上ない。 そして次に検定を受ける前に、補習教習というのをやらされる。でも僕が落ちた原因ってのは一本橋落ちただけです。補習するまでもないです。
ありえないッ・・・! 普段は落ちないのにっ・・・! 常識的に考えてっ・・・!
言い訳をします。 普段乗ってる教習車と違ったんです。普段の教習車は3台あるのでどれでも選べる訳ですが、検定のはまさかの4台目でした。同じCB750といっても、それぞれクセがかなり違くて、クラッチ、前ブレーキ、後ブレーキ、エンジンフィーリングなんかが、かなり違います。
まぁ教習の範囲内ではどれでも基本的には問題なく行えるのですが、例えば急停止する際に、A車と同じ操作でB車でやると、制動距離がかなり伸びたり、逆にロックすることが多々あります。 「慣れ」です。車体に慣れることも重要だと思います。
で、その幻の4台目ですが、「ハンドルが妙に軽かった気がする」という言い訳ですがね、まぁそれでも基礎が疎かになっていたのでしょう。
ニーグリップというものの存在なんて、しばしば忘れますからね。 そして緊張もありましたね。
言うなれば、僕は自分に負けたのです。 きっと過信していたのです。
自信がないと、為すべき事は出来ない。やろうとしない。やろうとすらできない。 しかし過信すると、出来ることが出来ない。
過信しない程度に自信を持つ。 これが非常に難しい。
自信の度合いは数値では表せない。けれど、明確でなくとも大まかな度合いは、自分で分かるものだ。
「成功する確率はどれくらい?」と聞かれて、「0%です」と答える人もいるだろう。それとは逆に、「100%です」という人や、中には「200%」という人もいるだろう。 また、「0%です」と言う人の中にも、心中ではそう思っていない人もいるだろう。
自信の度合いは人それぞれだ。 人それぞれだし、物事でもそれぞれ違う。得意なことでは自信があるけれど、不得意なことには自信が無い。それが当たり前だ。
「結果オーライ」とも「終わり良ければ全て良し」ともいう。 重要なことは、確かに結果かもしれない。 でも、大切なことは結果だけじゃないハズだ。 むしろ、得られるものは結果よりも過程に多いと思う。
結果を出すには、まず物事を始めなければならない。 最初の一歩を踏み出すには、程度の差はあれど、勇気が必要だ。
例えば、最初の一歩目で必ず転ぶと分かっている場合だったとしよう。 踏み出した先が落とし穴なのか、氷だったのかは分からない。けれど、確実に転ぶ。 そんなときには、いくら勇気があっても踏み出すことは出来ない。
勇敢と無謀は違う。 死ぬだけのために踏み出すやつなど居ない。
では無謀を勇敢に変える要素は何か。
それが「自信」だ。自らを信じて、一歩を踏み出す。 例え一歩目で転んでしまっても、自分を信じて立ち上がる。
踏み出すための勇気とは、踏み出そうとする瞬間、スタートラインに立つまでしか役に立たない。 あとは自信の役目だ。踏み出そうスタートラインに立った「勇気」の跡を継いで、実際に踏み出すのが「自信」だ。
勇気だけの一歩は無謀だ。けれど、自信のある一歩は勇敢だ。
大体映画とかだってそういうものだ。 敵に囲まれて無策で突っ込むと死ぬ。でも何か閃くなりして、自信満々で居れば死なない。
まぁこれは冗談ではあるが、やはり人間はどこかそういう部分で納得してしまうのだろう。
自信がなければ踏み出せない。物事を始められない。継続しない。挑戦しない。結果も出ない。そして結果に期待しない。自分を卑下する。だから自信が失くなる。
自信がなければ、自信を失くすのだ。これは経験上、良く分かっている。
自信を持つこととは、自分を信じることだ。 人を信じるよりも、中々に難しいものである。 しかし他人以上に、自分は裏切らない。自信は裏切らない。
裏切るとすれば、それは結果だ。結果が伴わないことはある。 しかしだからといって、それで自信を失くす…つまり自分まで裏切るのは道理に合わない。
自信を裏切るのは自分だ。しかし自信は自分を裏切らない。 自信こそは、自分の盟友なのだ。
良い意味でも悪い意味でも、他人は自分が思うほど、自分になど興味はない。 あなたが思っていることは、殆どが他人にとってどうでもいいことだ。
自分を疑う前に、自分を信じてみるのも、悪くはないんじゃないか?
ではまた。
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2010年8月20日(金)01:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理
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