君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


ツリー・アンド・ザ・ルート

はい。

僕は最近、対人恐怖症に近い。
現実世界では、例え友人であっても怖い。もちろん心を許せる限られた友人は別ではある。

本当は僕のことなんて路傍の石のような(害を与えないだけ石の方がマシかも知れない)存在にしか見てないのではないか。
仕方なく会話してやってるだけなのではないか。
憎むとか以前に、そもそも意識すらされていないのではないか。

無視されたくはないけど、あまり構って欲しくない。
とても我儘なのは自分でも知っている。
我儘だから、その理屈を通すたった一つの方法が、人を避けること。
関わらなければ、その我儘は我儘でなくなる。


でも結局、友人だ何だといっても、他人は他人だ。
限られた友人以外の、一般的な友人のために、命を差し出して救うなんて真似は出来ない。

なぜなら、友人の定義が広すぎるからだ。
「さして仲は良くないけど、談笑するくらいの仲」というのが友人だとするならば、(僕には無理だけれど)散歩中の人にだって声を掛ければ友人だ。

だから友人は「名前を知っている人」くらいの認識で丁度いいのかも知れない。

あまり友人という肩書にとらわれすぎると、ちょっと信頼を損ねられただけなのに、まるで絶交されたかのように感じるのだ。
あまり仲が良い訳じゃないのに、である。


あまり仲が良い訳じゃない。状況によっては嫌いだ。
そういうのが「友達」。

人間だれしも、他人の嫌いな部分はあるものだ。もし嫌いな部分がなかったら、相手は人間ではないだろう。
なぜなら自分にさえも、嫌いな部分はあるのだから。

だから、どんなに仲の良い親友であっても、丸っきりあらゆる全てが自分の好みの人間はいない。


こちらがそう思うということは、相手もそう思っているということだ。
肩書だけは「友達」かも知れないが、だからといって必ずしも好意を寄せるとは限らない。

むしろ、悪意を持っていても不思議ではない。
友人とは、結局そういう間柄だ。

そう思うと、友人相手にもなんだか上手く喋れない。どもるというか、何も考えてない昔のように、言葉がすらすらとは出て来ない。
いや、それは友人に限らない。

考えてみれば当たり前だ。
友人の定義が広すぎる以上、誰しもが友人になり得る。一瞬で友人になれるのだ。
だから、「会話をしている」という時点で、すでに友人のようなものだ。




現実世界でもそうだが、ネットでもそうだ。コメントが来たら、罵詈雑言なのではないかとビクビクして、本当は逃げ出したくなるくらい怖い。しかし読まない訳にはいかないから、怖いけど読む。

普通は悪意のあるコメントというものはあまり無いのではないだろうか。
しかし逆に、何かコメントするような事態というのは余程の事だと思う。

そして普通に考えて、コメントが悪いことであると決まっている訳ではない。しかし同時に、良いことであるという保証もない。

しかし良いコメだと思って開いてみたら悪いコメだった、というとき(幸いそういうことはないけれど)には、そのショックは半端ではないと思う。
僕だったら一気にサイトを閉鎖してしまいかねない。(実際にはしないだろうけれど)


悪意のコメントは誰だって嫌だろう。それを書く本人も、相手が嫌がるから書くのだ。
だから、来る全てが悪いコメだと思うのならば、いっそのことコメント欄を封鎖すれば良い。

でも僕は我儘だから、ちょっとした希望を持ってしまっているのだ。その希望が身を滅ぼすのに。

100通の良いコメを頂いても、1通の残酷なコメだけで、その100通の嬉しさが消えてしまうくらいの弱さだ。

しかしその1通を書いた人間が、今まで頂いた100通の内の一つを書いた人かも知れない。そう言うこともあるだろう。
そういう場合、その書いた人間には心変わりが有ったのだろう。それがコメントに反映されるということは、僕が彼に対して、そういうような結果を招くようなことを書いたのだろう。

自由に思ったことも書けないブログなら、結局無くても同じだ。
人に見てもらうことが前提なのに、見てもらうことで束縛されるのなら、見てもらわない方が良い。




恋人が出来て、束縛されるというのは良く聞く話だ。
恋人が出来たら束縛されるのだとしたら、僕は恋人なんて要らない。

友人が増えることで行動が制限されるなら、どちらが良いだろうか?

制限する必要のない友達を「親友」と呼ぶのなら、・・・それなら親友のいる人間はほとんど居ないだろう。

「友人」ほど気を遣わなくていいのが「親友」だとすれば、大幅に増えるに違いない。
親友の条件と言うのはひどく厳しいもので、例え友達が100人いても、親友は片手で数えられるくらいではないだろうか。

要するに、自分のエゴを押しつけて、相手を切り捨てているのだ。
そして、ふるいに残った者が親友になる。そう考えると、不名誉かも知れない。
(似たもの同士で親友になるのなら、当人には不名誉ではないのかも知れないけれど)




「親友」は、親しいといえば「友人」よりは遥かに親しいだろう。
しかしだからこそ、余計に不安になることもある。

こっちが友達だと思っていても、向こうはそう思っていない。
それが一番怖い。
もちろんそれは親友でも友人でも同じだ。多かれ少なかれある程度信頼している人間から、それを崩されるのだ。

信頼を裏切るとはいうが、信頼というものは自分が勝手にするものだ。
だから、相手は自分が信頼していようがしていまいが、相手の思う行動を取っただけのこと。こちらが勝手に裏切られたと思うだけなのだ。

そもそも信頼こそエゴかも知れない。
信頼が互いに、そして複雑に絡み合っている所為で、身動きが取れなくなってしまう。



2010年8月30日(月)00:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
添付画像
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメントはありません。


(1/1ページ)