君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


作曲と自尊心

はい。

前の記事に書いたように、もうひとつ歳をとる前に作曲をしてみたい。

そう思ったら、僕の人生なんてまだ始まったばかりと考えても良いと思うんですよね。
特に人間性が形成されたのなんてここ数年だし、そう言うのが定まってからが大人なのかも知れませんね。

大人への門出に、何かしたいと思う。
でも作曲とか僕に出来るとは思えん。


僕が楽譜をPCで作るのは、記憶出来ないからなんですよ。
耳コピしても覚えられないんです。だから書くんだけど、リズムとかテンポすら記憶できないので、楽譜にするしかないんですよね。紙に書くと運指は再現出来てもリズムとかは忘却してしまうんです。

いいフレーズが浮かんでも、一晩寝たら綺麗サッパリ忘れてます。悲しすぎる。

そんなわけで作曲しようにも、浮かんでは消去される僕のインスピレーションと記憶。

これは一晩で作るしか道は無いのか・・・ッ!

まぁでもそもそも作曲の流れすら分からん僕が、最初から人に聞かせられるような曲を作れるとは到底思えませんけどね。

それでも夢を見てしまうのが人間ってやつさ!


まぁ忘れてしまうというのなら、それこそハンディレコーダーの出番でしょうか。

「自分で弾いたフレーズを耳コピする」というのはなんとも情けない気がしなくもないですが、一々PCに採譜するよか遥かに手っ取り早いですよね。

うん。どうせだから活用してみようか。



でも、急に詩やメロディが浮かんでくるときは、声に出すより他にないわけで。
しかし自分の声は聴きたくないんだよなあ。

まぁ世間で声を使う人なんてのは、そういうのは克服してるんでしょうけどね。

友人もラジオを始めた時は「こいつキメェ」という感じだったそうで、自分の声がものっそい嫌だったようです。
でも慣れたみたいですね。こんなもんだと。これが現実だと。

下手なギターを録音するのも嫌ですが、自分の声ってのはまた別な嫌さがあるもんです。


必要のない自尊心が、邪魔をしているのです。

作曲したいならすればいい。作詞したいならすればいい。
なのにそれをしないのは、作った曲が自分で納得できないことを恐れているからではないでしょうか。

たとえばギターの腕前、ミキシングの如何、作詞のセンス、曲の好み。そういうのを合わせて、普段聴いているような曲(市販されているメジャーアーティスト)なんかと比べて劣るのは当たり前なのに、普段はそれしか聴いたことが無いものだから、「プロのクオリティ」が当たり前だと思ってしまう。

それと比べて、色々駄目だと思ってしまうこと。それが「不必要な自尊心」ではないでしょうか。



作曲「してみたい」という時点で、自分には出来ないものだと諦めているのかも知れません。あるいは憧れのままなのかも知れません。

プロシュートの兄貴じゃないけれど、「ぶっ殺すと心の中で思ったなら、その行動は既に終わっているんだ」というのは、実は意外と当てはまっているのかも知れません。

『「ぶっ殺した」なら使って良い』らしいです。

「作曲したい」と思って作曲出来る人はなかなか居ないと思います。気が付いたら良いフレーズが浮かんできた。それに理由はないのなら、作曲もそういう風に作るのではないでしょうか。

「作曲した」なら使ってもいいのでしょうか。


さすが世界三大兄貴、プロシュートさんです。
そこにしびれるッ!憧れるゥ!




そして作曲する以上は、「自分の好きなジャンル」ということに自然となると思います。あるいは意図的にジャンルを変える必要性はあると思いますが、その中でも「自分の好きな感じ」という曲にはなると思います。


例えば僕は幸いなことに、コード主体のロックやブルースが好きで、コードくらいは弾けるのでそう言う意味では作曲はできると思うのです。

しかし「作った曲」と「理想や目標とするアーティスト、もしくは予想する雰囲気」とを比較すると、それはやっぱり異なったものになるかも知れません(もちろん理想通りになることもあり得ますが)。


考えてみればそれは当たり前の話で、自分の好きなアーティストだって人間なら、その思想や感覚は彼しか持ち得ないわけです。

そして自分が作曲するという時点で、その曲には自分の思想や感覚が入りこんでいます。

その思想や感覚というのは、例え自分がそのアーティストの熱狂的なファンだとしても自分と彼では絶対的に異なるもので、良い意味でも悪い意味でも、どんなに頑張ってもどんなに良い曲を作っても自分は憧れの存在にはなれないのです。


じゃあ「必要ない自尊心」なんてものは、捨てて良いんじゃないか。

そもそも大前提として、違う人間の作った曲において比べられる要素なんてのは楽器の腕と知識くらいなもので、他のセンスだとかそういう「曲に最も重要なモノ」というのは、もしかしたら自分にも盛り込めるかも知れないわけです。

そしてそういうセンスというのは、他の誰でも無い自分にしか備わっていないもので、あとはそれをどう調理するか、といった具合なのではないでしょうか。

その「調理法」が知識、「調理の道具」が楽器の腕前という程度の認識でいいのではないでしょうか。


調理の道具が無くたって、上手い飯は作れる。もちろん作ろうとする飯にもよるけれど、それがやりたいなら知識と道具を揃えれば良いだけの話です。

調理法が分からないのなら、分かる範囲で調理すればいい。
そしてその調理法というのは勉強する必要もあるけれど、大まかな完成図(好きなアーティストの好きな曲)を訊いたら、自然とそれに似てくると思います。


作曲したいなら、すればいい。

調理法も調理道具も要らないのなら、あと必要なのは「食べさせてあげたい」という思いだけです。

そうすれば、きっと美味しい料理になるのではないでしょうか。




ではまた。



2010年10月7日(木)23:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音談義 | 管理

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