ネット性善説 |
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| はい。
10月12日、今日も更新です。 何度か更新しようと思って、書くまでには至ったのですが、なんだか気分がノらないので削除したりしてました。何事も気分が大切です。
気分が乗ると、何も考えないで勝手に手が動いたりしますからね。まぁタイピングする瞬間には何か考えてるのでしょうが、それは後には残りませんね。後に残るのは、僕が打った文字だけです。
大抵、筆が乗らないときは気分がノらないので、記事もテキトーで中身もない感じになってしまいます。 そしてそれは「書きたいな」と思ったことであるほど、その傾向が強いですね。
書きたいと思って思案を巡らせていると、それに縛られてしまうというか。やはり書きたい事は書いてる最中に考えなきゃ(あるいは何も考えないで書かなきゃ)ダメなようです。
そもそも僕は記憶力が悪すぎて、書きたいと思ったことなんてその日の内に忘れて、結局書けない事の方が多いんです。 書きたいと思ったことが全部書けたら、日に3度ほど更新できるかも知れませんね。 まぁそこで出来ないのがこの僕なわけですが。
最近はインターネットももはや単なる通信手段ではなく、コミュニケーション手段として社会に馴染んだものとなっています。しかしここまで普及したインターネットをコミュニケーション手段として、あるいはネット上で活動するにあたって、ネットといえど、いやネットだからこそ様々な束縛があるものです。
例えば僕が書くのは「僕が考えること」に重きを置いてるし(少なくとも僕はそう思う)、私生活の事なんてのは、ネタとして時にはバレそうなくらい現実の事も書く場合はありますが、大抵はボカしているような気がします。ボカせているのかは分かりませんが。
しかしそれは、有る意味当然の話。こちらが全ての情報を開示しながら、閲覧者はROM出来る。それは盗聴や盗撮と何の違いもありません。 強いて違いを挙げるとするならば、晒している本人が望んでいるか否かという話です。それは大きな違いかも知れなくとも、事実として盗撮や盗聴とやっていることは限りなく似ているわけで、危険性が高いという事は同じなのです。
だから対面して会話するということが如何に安心できるかということを無意識に理解している証拠として、未だにネットでテレビ電話チャットが流行っていないのかも知れません。
チャットはネットにおけるコミュニケーションの初期の段階における手段としてスカイプなどでも普及しており、今の時代ではテレビチャットすらいとも簡単に実現出来るのにも関わらず、顔を見せることだけは頑として拒む。それは何事にも、悪用されるのを恐れるだけではなく、恥ずかしいという感情も含まれるのかもしれません。
むしろ今時の若い者(僕も一応分類される)は、ミクシィや何やら、「ネットでの出会い」に慣れているために、「ネットでの出会いに悪い者はいない」とすら思っている節があります。
性善説に似た、無根拠の信頼があるのです。
ネット性善説とでも言えるようなそれは、もちろん現実世界でも同様の思想がないとは言えませんが、やはりネットという特殊な環境の中で、「通常であれば信ずるに足る根拠が何もない状況における信頼」を生んでいるのです。
例えば初対面の人では、その人の服装、声色、喋り方、しぐさ、年齢、性別、目つき、肌の色等などから、無意識のうちに経験上の人間を参照して、初対面の人間を自分の中でキャラクター付けしてしまいます。
これは第一印象などと言われますが、大体においてよっぽど特徴が無い限りは、その印象は正しいと言われています。
しかしネットでは、それらを全て偽ることが可能です。会話していても、その顔が載るサムネイルや性別、年齢、経歴など、全ての事は騙ることが出来るのです。
にも拘らず、慣れ合いに慣れたネットの住人はまるで相手の語るそれが真実であるかのように、疑う余地もなく丸っきり信じてしまうことが多く、普通に考えれば「なぜ疑わないのか」と逆に心配になるほど信じてしまう。
もちろんある程度の信頼がなければ、ネットといえど会話は成り立ちません。
しかしだからと言って手放しで相手を信頼するというのは、非常に危険だという事を分かって欲しいと思います。 そして、それは痛い目に遭わなきゃ分からないのかも、知れません。
まぁオフ会なんてのは楽しそうではあるし、「信頼できる信頼がなければ対面してはいけない」というのならば、ネットで知り合った人間とは対面できないことになります。
あるいは、その人のネットでの言動をある程度見ることで信頼に足る情報は手に入るかも知れませんが、それをどこまで信じるかが問題です。
もちろんネットする人間が全て悪という根拠は無いし、ネットをする人間は現実での生活があるわけで、そう考えると悪人はそうそう多いとは考えにくいのではありますが、「やろうと思えばいつでも悪用してしまえる」というのを忘れてしまいがちです。
「慣れた頃が、一番危ない」という言葉の通り、初めは少人数でも怖がっていたのが、慣れ合いに慣れ、ネットでの知り合いも増え、悦に浸り、調子に乗った頃に会う、「大勢の内の一人」が加害者とも限りません。
そうならない為にも、ある程度の緊張感は必要です。
ニュースでもこういった事案は屡出てきますが、いずれも他人事としか感じられていないように見受けられます。かく言う僕も、そうではないと言いきれませんが。
ネット性善説は、ネットが現実社会により近づいたことで生じた概念なのかも知れません。 しかし現実世界とネット世は、異なるということを忘れてはいけないのです。
ではまた。
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2010年10月7日(木)23:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理
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