君と僕と幼女(Ⅱ)
 
犯罪者になるつもりは毛頭ないというのだ。ベーシストよ、変態であれ!
 


卯年/生存/差異と暦

図1:年賀状にするはずだった実家の犬


はい。

お久しぶりでございます。
12月23日以来でございますね。その間ツイッターも一切書き込んでませんでした。「死んだんじゃねぇか」と思った人も…いないか。

とはいえツイッターもこのブログからは見れない状態になっているので気づかないのでしょうけどね。僕自身も最近はツイッターから離れていて「お気に入り」からも削除しました。それでめっきりツイッター依存度とか常駐度は低くなってて、みんなの発言も全然追ってません。そもそも追う必要も全くないのですけどね。



さて新年が開けたにもかかわらず年末の1週間で1000キロほど車で移動する羽目になりまして、非常事態により大晦日・正月どころではなくなってしまいました。もちろん更新など出来るはずもございません。

雪中の運転も一歩間違えれば死です。特にマイナス12度などという外気温では、事故死を免れても凍死してしまう危険性もあります。

まぁ幸いにしてそのような事態には陥らずに済みましたが、まだ年末の面倒事は過ぎ去った訳ではないのです。
非常事態は抜けたものの、また車で700キロほど雪中行軍ですね。


というわけで「正月気分」なんてのは微塵も感じられず、いまだに2011年とは信じられません。
信じるという言い方は変かもしれませんね。時間は連続したものであって、2010年と2011年で明確な違いはないのです。

明確な違いどころか、人間社会を抜きすれば2010も2011年も何も違いはありません。
だから別に僕だけが2010だとしても、そんなのは些末な問題にすらならないのかも知れません。


クリスマスも年末も年始も、世の中にあるような雰囲気は僕には皆無ですね。
これらの日だからと言って個人的に何らかのイベントがある訳でもなく、何かが変わった訳でもない。

まったく寂しい年末年始です。
誕生日にも欲しいものはこれと言ってなく(バイクは欲しいけど)、クリスマスプレゼントなど端からなく、お年玉ももう貰う齢でもないということで別に熱望するわけでなく、福袋も一旦注文したものの冷静になってみれば特に欲しいものも無くキャンセルし、成人式も面倒なだけで行きたいなどとは少しも思わず、成人式の後にあるという噂の同窓会も魅力を感じない。

「一生に一度の成人式だから」などというけれど、言ってしまえば何らかのイベントもその度に一生に一度しかないといえますよね。

キザな言い方をすれば「毎日が一生に一度の一日」であるわけで(さすがに普遍的な毎日にそんなことを想って生きては居ませんが)、少なくとも成人式に「一生に一度」の文言で行きたくなりはしませんね。



そもそも新年とは、”一年”という区切りの中で人間が勝手に周期を決めて喜んでるだけの風習です。

その周期のことを”暦”といいますが、これが仮に「あっやべ、これ間違ってたわ。本当は新年1週間後だわ」ってなってたとしても、人間はそんなのには気づかないわけですよ。

本当は(本当かどうかも変な話ですが)新年は一週間先なのに、間違って一週間前に人類は喜んで富士山に登って、有り難がって朝日を拝む。普段は全く行かない神社に行き、家族で集まり、そばを食う。

そんなんアホみたいじゃないですか。いや、新年を祝うのは良いんです。家族で集まるのも大切なことだと思います。

しかし何もしないでも朝日は昇り夕日が落ちるのに、勝手にそれを区切って数えて計算して周期にして、あたかも1年前と1年後が全く同じ日であるかのように錯覚してるんですよ。

便宜上、「明日」とか「昨日」とかそういう区切りは確かに便利です。今の社会は暦が無ければ機能しないでしょうし。


しかし暦がなければ何でもないただの日なのに(正月が1週間遅れても人間は体感出来ないのに)、それをわざわざ大変がる。

正月に限ったことじゃありませんよ。
クリスマスや誕生日など、あらゆる祝日や祭日は暦と時計が明確だから分かるわけで、それが無ければ人々はそんなものを祝ったりなんかは出来るものではありません。

夏至や冬至なんかはあるいは分かるかも知れませんが、それを時計やカレンダー無しで把握できる人間が現代に居るとは思えません。


つまり、「明確な差異が無いのにも関わらず、あたかも一日々々に差異があるかのように錯覚してしまう。それでいて1年前と1年後の当日が全く同じ日であるかのように錯覚してしまう」のが暦の悪い部分だと思うわけです。

時計が無いのに12月30日23時59分と1月1日0時00分が分かる人間が居ますか?それらに違いはありますか?

そこに違いはないのです。一日という概念がそもそも自然界には存在しない。ループしてるように見えても、それらすべては常に初めての出来事となるわけです。

「同じ日」などというのは存在せず、「一定の周期的リズムが見られる」のが暦の本来の役割なのです。
だから「異常気象が云々」「去年は~、今年は~」などと言っているのは、毎年その日が同じ日だと認識している所為です。あくまでそこには「一定の」リズムがあるだけで、その冬ちょっと雪が多かったり、その夏がちょっと暑かったりするだけで大騒ぎするのは、その辺りが欠落しているからなのではないでしょうか。

大局的に見れば日本では「春夏秋冬」は毎年同じようにやってきます。これが「一定の周期」であるのに、なぜ満足できないのでしょうか。なぜ毎年その日は同じ日でなくては為らないのでしょうか。



2011年1月1日(土)23:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

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