自分と影響 |
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| はい。
カウンターを見ると全盛期の1/8くらいしか人が来てないような気もしますが、これ実は、別に減ってる訳じゃないらしいのです。
アクセス解析の方を見てみると、更新が途絶えた後とその前で人数に違いがありません。
むしろ、カウンタの方の値がより正しくなったと言えるのかもしれませんね。
嘘でもいいから人が来てくれるのはうれしいんだけどね。
人は、どれだけの人に影響を与えられるだろうか。 人は、どれだけの人に影響されるだろうか。
或いは、人は出会った人の数だけ影響し、されるのかもしれない。
友達が百人出来るのは凄いことだと思う。
人は、どれだけの人に出会うだろうか。 出会うだけで影響されるのなら、友達に与え、与えられる影響はどれだけ大きいのだろうか。
人に小さくない影響与える人。そういう人が与える影響は、一人だけではなく、きっと大勢の人に与えられるのだと思う。
影響というだけならば、そこに善悪は存在しない。 人を助けるのも、人を殺すのも影響は影響だ。
そしてそれは決して別な存在ではない。 人を助けた善の影響が、人を殺す悪の影響にもなりうるのだ。
しかし皆、悪の影響からは限りなく逃げたい。自ら近づく人は、居ない。 一人の悪の影響は、集団には届かない。
逆に、善の影響に、人は寄ってゆく。 一人の善の影響は、集団に届く。 だから一人の善の影響は、受けやすく、帯びやすい。
影響を帯びた集団は、帯びたまま個へと帰す。 個は影響を受け、自分を形成する。
あるショックなことがあった。とてもここには書けない。書くことが出来ない。今でも茫然自失としている。
ここ最近あったなかで、ショックというならば何よりショックだった。
思わず誰かに話したくなってしまうほどの。
しかしそれは、影響を受けた僕だから、同様に受けるショックなのだ。
誰に打ち明けたところで、そこに意味はない。
無意味以下の、形容できない何か。 だからこれは、人に話してはいけないのだろう。
ショックと連呼すると安っぽく聞こえるが、これは何にも形容できない。
影響を受けた人が云々というのなら、アベフトシが死んだときも、忌野清志郎が死んだときも、大層ショックだった。
清志朗は未だに死んでないと思っているくらいだ。
しかし僕は、ミュージシャンとしての彼らを知っていても、個人としての彼らを知ってはいない。
アベフトシがどんな性格でどんな話し方でどんな目つきで、他の人にどんな接し方をしていたのか、知らない。
端的に言えば、僕にどういう風に接してくれたのか、僕とどんな話をしてくれたのか、僕は知らない。
それは当たり前だ。僕はアベフトシに会ったことは無い。この目で見たこともない。僕にとっては、映像の中の人だ。
だから猶更、アベフトシや清志郎が死んだとは思えない。
動いている彼らを見たことはあっても、生きている彼らを見たことは一度としてないのだ。 生きていないから、死んでもいない。
そういう人が人々に与える影響は大きいかもしれないけれど、それは生きている影響なのだろうか?
いや、逆に大きすぎて、人の進む方向を決めてしまうほどの影響は、「そういう人たち」からしか得られないのではないだろうか。
今回のショックで、僕が人から受けた影響は、それほど重要なものではない。
数えきれないほど出会った中の、数えきれないほど話をした中の、少し数えられるほどの面識の中の。
人の芯は、人から影響を受けてぐにゃぐにゃと曲がる。それは薬になるし、毒にもなる。
けれど、決して無駄にはならないという。
却って、人の影響を全く受けずに育った真っ直ぐな芯というものがあるなら、それはきっと誰にも影響を及ぼすことはないのだろう。
グニャグニャと曲がった芯がとなりの植木鉢に当たって、隣の植木鉢に生えている芯が曲がったり伸びたりするように。
じゃあ自分って何だ。
影響を受けてぐにゃぐにゃと曲がった芯が自分だというのなら、自分に自分はどれだけの影響を与えられたのだ。
ぐにゃぐにゃと曲がった芯である自分を形成したのは、影響を与えた人物なのではないか?
自分の形成は他人によるもの。自分こそは他人が作りし人。
じゃあ他人って。
他人って、自分が作り人なのかも知れない。
それは影響の話ではなく、先入観と独断と偏見と決めつけという意味で。
いや、ある意味では影響の話だ。
自分が作りし人、他人。
他人から影響を受ける自分。
その影響すらも、自分がつくったものなのではないか? 自分が作り出した妄想や空想の産物なのではないか?
良い人から受けた善の影響。 良い人と決めつけたのは自分で、善と決めつけたのも自分だ。
更に言えば、影響を勝手に受けるのも自分だ。 人に影響を与えようとして与える人間はいない。
じゃあ自分って、自分が作った他人が及ぼしたように見える影響に影響された人、なのだろうか。
僕の思い描くすべての人は、僕が決めつけただけの人に過ぎない。 本当はもっと違うかもしれないのに、その様にしか見えない。
思い出の中の人はさらにそうだ。その決めつけは修正されることなく、一部を見てその人のすべてを知った気になって、その人はそのままであり続ける。
良くも悪くも、それは仕方がないけれど。
影響は結局、自分が自分に与えるのだ。
ではまた。
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2011年2月10日(木)23:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理
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