親愛なるファッキンブログシステムへ |
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| はい。
最近やたらとブログの調子が悪い。
いや筆が乗らない的な意味ではなく。 いや筆は乗らないのだが。 いやというより、乗る筆がそもそもないのだが。 加えて言えば、筆が乗る場所もなかったりする。
というかその肝心の筆の乗る場所がこのブログであるわけで。 乗らない筆の乗る場所が、非常に不安定なのである。
来訪者の方はもちろん、僕も閲覧できない。 とはいえそれは当たり前の話なのだが。
そしてさらに当然と言えば、更新ができない。 とはいえ見れないのなら更新する意味もないのだが。
昔からそうなのである。 きっと、このブログを開設したときから"そう"なのだ。
「完調だったことなど、一度もない」
これはこのブログに何度も書いていることだし、実際に不具合報告として訴えたこともあった。 しかし一向に改善などされない。少なくともこれが改善されない限りは、他がどんなに調子が良くても「完調」とは言えない。
最近では不具合報告すらも無視されているのが現状である。 このブログの嫌な部分の、二つのうちの一つだ(ただしそれは割合にすれば二割程度ではあるが)。
残りの一つは文字数制限。 これも全く意図が不明であって、その旨を要望に記した覚えがある。しかし納得いく回答も得られなかった。
その答えが、 「ケータイで見るのに容量を超えるから」 というもの。
しかし矛盾しているのは、「追記」という形で書き込めば、字数制限など実質存在しないという事実である。
ケータイでは、「追記」部分は最初から展開されて閲覧される(少なくとも僕の機種では)。 そして、3年以上前のケータイである僕の機種でさえ、それで容量オーバーになったことはないのである。
これの字数制限というのは2500文字である。 しかし実際に「容量を超える」ためには、1万文字でも記述しない限りはありえないのだ(少なくとも5000文字では問題なかった)。
だとするならばそれをケータイで読めないのであれば、それはその文字数を書いた人の責任(というか過失)であって、わざわざブログのシステムに組み込む必要は皆無なのではないかと、僕は強くそう思うのだ。
「大きなお世話だ」というやつだ。
もちろん僕は「利用してやってる」などという傲慢な気持ちでこのブログサーバーを使っているのではない。 「利用させていただいている」と思っているし、実際に有り難いと思う。
しかしそれはサーバー側としても同じことだ。利用者が存在しなければ、(その場合そもそも存在理由もなくなるけれど)そのサーバーは広告による収入もなく運営も出来ない。更に言えば利益も期待できない。
だからサーバーとしても、「使ってもらっている」という気持ちはなくてはならないのだと思う。 両者がそう思わなければ、良好な関係は作れないし保てない。
しかし実際にはどうだ。 「完調だったことはただの一度もない」 「不具合報告は放置」 「不条理な(不合理な)システム」
サービスとして、放置は最も拙いのではなかろうかと思う。 勿論、無料で利用させていただいている身からすれば、多くは望まない。
しかし、○○が出来ますよ、という触れ込みに対して、実際には出来ないのは、これは裏切りに近いのではないか。
不具合というのは、何もシステム全体ではない。基本的には良好で(最近はそれも危ういが)、ごく一部の機能が使えなかったりするだけなのだ。
それならば、無様にもそれを晒し続けるのではなくて、調整が完了するまで、その機能は「使用できません」と言ってしまえばいいのだ。
それが「出来る限りはやく修復します」とかいって、もう1年は経っている気がする。論外にもほどがあるだろう。
そういう理由もあって、当ブログの終焉も近づいてきているという次第である。
そもそも無きゃ無いで良いものなのだ。
総量からすればそれなりの量は書き込んだつもりだ。 しかしそれが誰の役に立つわけでもなく、どれだけ多く見積もっても、今現在で43148人しか閲覧していない。
「43148人しか」などと言って僕自身とても信じられない人数ではあるが、それでも"役に立った"、とは言い難いだろう。
それも含めて、「無きゃ無いでいい」のだ。 とはいえそんなことを言えば基本的に全てのブログもそうだし、極大な視点からみれば地球だって「無きゃ無いでいい」のかも知れないけれど。
僕だって辞めたいわけではない。 しかし、そう思うこともある。 いや、辞めたいという明確な意思ではなく、「続けるのか?」という疑問だ。
辞めたいのならやめるべきだし、続けたいのなら続けるべきだというのは、誰にでもわかる。
では、「辞めたくない」のならどうか。「続けたくない」のであれば。 その場合も、それが明確であれば同じかもしれない。
しかしそれが明確でなかった場合、それは惰性となって現状維持になってしまう。
惰性はいつか止まる。 最終的には、動いているのか止まっているのかすらあやふやなままで。
それなら、その危険性があるのなら、「続けたい」と思っているうちに辞めてしまうのが、一番スパッと辞めれるのではないか。
何か嫌なことがあれば、「やめたい」と思うだろう。 しかしその場合でも、その"嫌なこと"に対する逃げだという風に捉えられるのも癪だし、かといって今までのような体制では続けていけば、また"嫌なこと"に巡り会わないとも限らない。
それならば「続けたい」と思えるうちに「辞める」のが一番いいのだ。 逆に言えば、「辞めたい」と思ってからでは辞められないのではないか。
なぜならその場合、「辞めた」のではなく「辞めさせられた」のだから。 例えそれが自分の選択でも、少なくとも切っ掛けではあったのだから。
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2011年1月16日(日)21:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理
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